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人生には目的以上に大切なことがある。

私には人生を賭けた夢や目標がありません。その時その時でいろんな夢や目標を持っていますが、もっと面白いものがあれば常に上書きされていきます。

例えば10代の時は小説家を目指していました。そこで小さいながらも2度ほど賞を頂いたことがありましたが、20代前半ではサッカーの市民活動にのめりこみ、Jリーグの試合会場で初心者のためのサッカー観戦ガイドを行っていました。そして20代後半からは宿坊旅行にはまり、30代では婚活サポートに打ち込んでいます。

そんな中で、圓融寺の阿(おか)住職が書かれた『「迷子」のすすめ』が面白かったので紹介します。



 「迷子」のすすめ

 阿 純章 著

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例えばこんなふうに思ったらどうだろう。
朝起きて窓の外の景色を眺める。
「ああ、この景色を眺めるために生まれてきたんだ」って。
道すがらすれ違う人とあいさつを交わす。
「ああ、この人とここで出会うために生まれてきたんだ」って。


もちろん悪いこともそうだ。
「このいけ好かない野郎と会うために生まれてきたんだ」「この犬の糞を踏むために生まれてきたんだ」って。

生きていると良いことも悪いこともある。しかしそれらの身に起こる一つ一つの出来事を、ゆっくり味わい尽したらどうだろうというのが、本書の主張です。

これは簡単にできることではありません。少なくとも悪いことまで味わい尽すことは、私にはまだできません。ただし阿さんはこの心持ちに至る視点を、仏教説話や様々なお話を通して、提示してくれます。


自分の掲げた目的通りの人生を送れたら素晴らしいだろうが、そのために様々な縁を断ち切るようにして生きるならば、それはそれで孤独で虚しい。


扉の前にいても、どれを選ぶべきかと思い悩み、開けて扉の向こうに行ったとしても、選ばなかった扉への未練が残る。


「重い」「手放したい」「なかったらいいのに」と思うこともあるだろう。でも、もしかしたら知らないだけで、生かし生かされ支え合っている関係かもしれないのだ。

阿さんの定義では「迷子」=「道に迷っている人」ということではないようです。私の解釈ですが一直線に目的地を目指すのではなく、行ったり来たりや右往左往を楽しむ人ということでしょうか。

そしてその行ったり来たりを楽しむためには、人生の目的よりもご縁を優先することが効果的なようです。というよりも、人生の目的なんて大したことはないよというメッセージが伝わってきた気がします。

私自身は人生を、「死ぬまでの暇つぶし」と表現することがあります。私は運命論で力を発揮できる方ではありません。これをやらなきゃと力んだり、生まれたことには意味があるとか考えると、どうもうまく動くことができません。暇つぶしくらいに意味のないものとして捉えると、私はむしろやる気が沸き起こります。

(ちなみにこの辺は妻と話していると一番かみ合わない部分で、うちの妻は生きることは修行とか、起きたことは与えられた試練という考え方が好きなようです。それで力を発揮できる方もいるでしょうし、どちらが良いとかそういうことではないでしょう)

ですので私はこの阿さんの迷子論には、とても感化されるものがありました。


「人生に失敗はつきもの」ではなく、私だったら「人生に失敗はない」と言いたいな。だからこそ、この人生、安心して迷子を楽しもうではないか。

目的地に着くことが全てであれば、たどり着けないことは失敗かもしれない。しかし目的地に着くことは二の次であれば、その過程を味わいさえすれば、すべてが成功になる。

そんな新たな視点をもたらしてくれた本でした。

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